トップ画像:ベトナム戦争・アンケイ渓谷で作戦に従事した米軍第101空挺師団。負傷した戦友に肩を貸す(1966年、ベトナム)
かつて「PANA通信社(パン・アジア・ニュースペーパー・アライアンス)」という名の報道機関があったのをご存知でしょうか。創立者は第2次大戦後、戦勝国の特派記者・カメラマンの一人として敗戦国・日本にやってきた中国系アメリカ人の宋徳和(ノーマン・スーン)。「アジアの、アジア人による、アジアのための通信社」を標榜して1949年に設立され、朝鮮戦争やベトナム戦争などの報道で大きな足跡を残しました。
その後、時事通信社の経営傘下に入り、2013年には「時事通信フォト」に社名変更して「PANA」の名は姿を消しました。長年、JPAAの会員社でもあった「PANA通信社」とは歴史上、一体どんな存在だったのか。このほど「PANA通信社と戦後日本」(人文書院)を著した中部大学講師の岩間優希(いわま・ゆうき)さん=メディア学、国際関係学=にお話を伺いました。
「PANA通信社」研究に入られたきっかけは?
岩間:私はメディア史を専攻する中で、戦争報道を研究したいと思い、史上唯一と言っていいくらい自由な報道が許されたベトナム戦争をテーマにするようになりました。その過程で、継続してベトナム戦争を報道した初の日本人ジャーナリストとして岡村昭彦の存在を知り、彼が「PANA通信社」の契約カメラマンだったことから、「PANA」のことも調べるようになりました。
― 創立者の宋徳和さんとはどのような方ですか?
岩間:客家系の中国人を両親として1911年、ハワイに生まれました。英語で教育を受け、北京(当時は北平)の燕京大学に進学。ここで客員教授を務めていた米ミズーリ大学ジャーナリズム学部のフランク・マーティンに出会い、その教えに感銘を受けてジャーナリストを目指します。ミズーリ大に留学後、中国に戻って英字紙などを経て、国民党系の「中央通信社」(以下「中央社」)に職を得ました。第2次大戦後、「中央社」の東京特派員として来日したのを皮切りに、1962年までの17年を日本で過ごします。
― 宋さんは日本や日本人にどのような印象を持っていましたか?
岩間:宋さんは戦前から日本人とのかかわり、交流はありました。その時に接した日本人は本当に平和的で、知識もあって素晴らしい人たちだったのに、戦争中の日本軍の残虐ぶりを見ていると本当に強欲で、あれが同じ日本人なのかという印象を持っていたようです。ところが敗戦後、来日して農民だったり、商人だったり、政治家だったり、いろんな層の日本人と接して、本来勤勉で親切な日本人が戦争に突き進んだのは、よい政治的指導者がいなかったことと、よい報道機関を持つことができなかったためだと考えたんです。
― 本の中には、東條英機元首相が東京裁判で絞首刑を宣告された時、奥さんと娘さんをマスコミの目から逃すため、宋さんが自宅にかくまったというエピソードが紹介されています。
岩間:宋さんは政治的立場、国籍、民族にかかわらず、人間同士として人と接することができた人です。東條元首相のご家族の件も、苦境の中にある人たちを助けたいという気持ちだったと思います。その時のことを自身で記事にすることは一切しませんでした。そういう宋さんの人間性を戦後日本の政治家や財界人たち、例えば白洲次郎や鳩山一郎元首相なども高く評価していました。
「PANA通信社」設立のきっかけは?
岩間:一番大きかったのは1949年の中華人民共和国の成立です。共産党に敗れた国民党とともに台湾へと移らざるを得なくなった「中央社」もかなり規模が縮小し、今までのような形での報道はできなくなった。東京支局は大きな変更はなかったようですが、宋さんにとっては「中央社」の先が見えないというのが(転身を考えた)一番大きな理由だったと思います。それに宋さん自体、非常に世界的視野を持った人ですから、国民党の機関である「中央社」でというより、もっと自由な立場でアジアの激動を伝える必要性というのをずっと考えていて、そのタイミングで新しい通信社を立ち上げることを決意したんですね。
― 「アジア人による、アジアのための通信社」というのは宋さんの理想ですか?
岩間:当時は、アジアの国々がそれまでの欧米などの植民地支配から次々独立したりしている状況です。正にナショナリズムの高まりの時期でもありました。ただ、どの国もやっぱりまだ独り立ちした直後で非常に脆弱ですから、そうした国家同士が協力し合って列強からの干渉というのをはねのけていかなければいけない、また、それぞれの国内の共産主義勢力とも対峙しなくてはいけないということがある。そうするための手段、枠組みとして、アジアの国々が団結し、それがアジア人による新しい試みとして注目されていました。その流れの中で、有名なところでは1955年にインドネシアで開催された「バンドン会議」がありますが、そこで謳われた反帝国主義、反植民地主義、そういう思想と「PANA」を作った宋さんの考えは同じ潮流にあったと思います。
― 「PANA」の「アジアのための」報道とは具体的にどのようなものでしょうか?
岩間:何か出来事があった時に、アジアのその地域にどういう影響があるのか、そこに住んでいるアジアの人たちがどう考えているかとか、庶民、一般国民にどういう影響があるかみたいなところも「PANA」は報道に取り入れていたようです。欧米の通信社や報道機関だと、アジアのその国の発展を思って書かれる記事なんて当時はほとんどなかったでしょう。そのあたりを、アジアの記者が現地の目線でとらえ、どういった選択をするのが地域の人たちにとってよいか、あるいはある事実や決定が現地にどういう影響があるか、そういった視点を「PANA」は重視していたと考えています。
― 「PANA」は東京以外にアジア各地に31もの支局を擁するなど広範なネットワークを持っていたそうですね。1963年には岡村昭彦さんをベトナムに送り込み、サイゴン支局を開設しています。
岩間:バンコクでの取材を望んでいた岡村さんにベトナム行きを強く勧めたのは、「PANA」シンガポール支局長だった陳加昌さんという方です。ベトナムは1954年に独立戦争に勝利し、フランスは撤退しますが、陳さんは1956年から長期に渡り現地を何回も取材されていて、要人にもインタビューを重ねています。フランスに代わり、アメリカが軍事顧問団を送り込むようになり、1960年には南ベトナム解放民族戦線が設立される。事態がどんどん泥沼化していく中で、アジアの中でベトナムが最も重要なニュース発信地になる、というのは早い時期から陳さんには見えていたわけですね。その時点で日本人も日本のメディアも気付いていませんでした。
― 陳さんのサポートもあって、岡村さんの解放区への潜入ルポという世界的なスクープが実現したのですね。
メディア史における「PANA通信社」の存在意義は?
岩間:個別の事例で言えば、岡村さんがベトナムに入り込み、現地の状況を報道することによってベトナムの民衆のことを日本人が知ることができた。これは「PANA」のネットワーク、アジアのネットワークがなければできなかったことです。1964年の東京五輪の時でも、「PANA」のカメラマンはAPなどのカメラマンがトップのアスリートを撮影している横でたとえビリでもアジアの選手を撮っているわけですね。それが本国の新聞に載ることでアジアの人たちは自国選手の活躍を見ることができた。「PANA」の取材がアジアにとって重要な情報になったというのがわかります。もう少し大きな観点で言うと、「PANA」はアジアのジャーナリストたちがいっしょになって起こした、おそらく史上初の事業なんです。規模と形態から言うと史上唯一と言っていいでしょう。最終的に理想通りにはいかなかったとしても、今後、アジアの人たちが集まって何かやろうという時に、「PANA」の体験や歴史というのは非常に大きなものだと思います。
― 21世紀に入り、中国の超大国化、北朝鮮の核武装化による緊張などアジア情勢は日々、世界から注目されています。このような時代に、同じアジアの報道機関、メディアが果たすべき役割は?
岩間:報道において対立を煽ったり、相手国のことを悪く言って、自国を称揚するようなニュースというのは、一時的には人気を集めても、長期的には社会に取り返しのつかない損失をもたらすことをメディアはぜひ考えてほしいですね。そうではなく、考え方が違う同士が議論をするという企画を促進することがメディアのひとつの役割としてあると思います。「PANA」のようなプロジェクトは、通信社という形態としては難しいかもしれませんが、例えばアジア何カ国かの記者がいっしょにどこかを取材して、それぞれの目線で書いた記事がひとつの新聞に載ると、こんなにとらえ方が違うんだっていうのが分かりますし、そういう企画があったら面白いんじゃないでしょうか。
― どうもありがとうございました。
岩間優希(いわまゆうき)
profile
愛知県生まれ。中部大学国際関係学部を卒業後、同志社大学でメディア学を専攻。その後、立命館大学の博士課程に編入し、「ベトナム戦争と日本のジャーナリズム」を研究。2015年から中部大学全学共通教育部講師。主な著書に「文献目録 ベトナム戦争と日本」(人間社)、「戦後史再考―『歴史の裂け目』をとらえる」(共著、平凡社)など。